「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とは江戸時代の随筆集『甲子夜話』の中の一節であり、野球界の名将、故・野村克也氏の座右の銘としても有名な言葉です。
この言葉、勝負は時の運とは言え、偶然に勝つことはあっても偶然に負けることはなく、失敗の裏には必ず理由があるはずだという教示ですが、それは勉強においても大いに通じる部分があります。
得てして好成績を挙げた場合にも「たまたま運がよかった」と思うところがあるかもしれませんが、そもそも運を味方につけるような努力=一定の勉強量があればこそ引き寄せられた運ですし、逆にそうした努力を怠った者のもとに運が転がり込んでくることはありません。
特に受験生ともなれば、最終的な志望校の合否に至るまでにも、例えば模試の成績といったプロセスにも勝敗はありますし、そういった一つ一つのプロセスにおける「負けに至った必然性」を追求することは、最終的な勝ちをつかみ取る上では不可欠な要素です。
では、負けに至った必然性を追求するとは、具体的にどういったことを指すのでしょうか。
8割の当たり前と2割の気付き
筆者がかつて在籍していた業界には「8割の当たり前の他に2割の気付きがあれば、その検証は成功だ」という言葉があります。
つまり様々に検証していく過程において、ほとんどのことは分かり切った当たり前のことだったりするものですが、中には思いがけない気付きも潜んでいるもので、それこそが解明へのカギを握っており、同時にそこに辿りつけただけでその検証には大きな意義があるということです。
少々理屈っぽい話になりましたが、具体的に勉強シーンをイメージしてみましょう。
例えば数学の成績が振るわなかったとして、実感として「計算ミスを重ねてしまった・・・」という敗因を認識していたとします。
多くの場合は計算ミスだから次回は気を付けようで済ましてしまうところですが、実は公式に抜けや誤りがあったり、覚えてはいても練習量不足で正確性を欠く現状かもしれません。
つまり、1%でもより具体的にその敗因を解明することができれば、次回同じ失敗を繰り返さない為の対策が打てます。
どんな結果であれ、不思議の負けの謎を解明すべく地道な検証作業を重ね、対策を反復する。結局はこういった地道なアプローチを徹底できるかどうか。特に今年はコロナ禍の影響で、より地に足をつけた歩みを重ねた者とそうでない者の格差は開く一方です。
勉強の王道は地味で地道で継続することには困難もありますが、そこを徹底できるかどうかこそが、勝敗のカギを握っています。